3.22.2011

日本人、アメリカ人、そして国際人

最初の地震発生から11日目。食料、電気、燃料、余裕。様々なものが都内・横浜近辺ですら不足し、平行して思いやりもどんどん低下している。明らかに多すぎる「新たな情報」に振り回され、マグニチュードやマイクロシーベルトなどの数値に踊らされている。そんな状況であらわになるのは人間性。備えあれば憂い無しというが、他人をさておき乾物食品やガソリンを買い占める姿は異常な光景。都会だからこその自分主義は、思いやりに欠けた、人らしからぬ行為に他ならない、と残念に映る。

サエがハワイに旅立ってから3日が過ぎた。この旅行は、出発の2日前に急遽話し合って決めたのだったが、将来を見据えたサエと、職の最後を全うしたい自身、互いを尊重しあったよい決断だったと思う。しかし、この判断は賛否両論だったのも事実。皆が頑張っているのに1人だけ火事場から逃げ出すのか?ということだろうか。

そんな反対意見もあって考えさせられたのは、海外メディアの報道で最近よく耳にする日本人の国民性。「忍耐強さと団結力がある」、「災害に遭っても我慢強く、落ち着いている」などなど。日本人の何を見て、このような意見がでてくるのだろう。最初に思い出したのは、戦時中のキャッチフレーズ。「ほしがりません、勝つまでは」と唱え、武器転用の為に家庭の鉄製品を国へ献上していた頃から、皆で一緒に我慢をする部落主義は根付いていたようだ。この、「前ならえ」を主導しているのはもちろん国だが、村八分にされたくない個々の不安がそうさせるのではないだろうか。

平均である事を望む民族、日本人。身長、体重、知能指数、年収、小遣い、寿命に 至るまで平均値が算出され、国民はその数値を見て自分が「出た杭」でないことを確認する。言い換えると、隣と同じである事に安堵を憶えるのである。推測めいた話になるが、国はメディアを通じ、その習性を利用して市民を思い通りに誘導する事さえできる。今回の地震では、都心でもパニックになることが想定されたが、それぞれが勝手に避難を始めたらそれこそカオス状態になりかねない。そこで、自宅に留まりたいと思わせるにはどのような方法があるだろう。計画停電。通電時にブレーカーから発火する可能性がある等の報道をして住民の不安を煽り、町内ごとに区切って互いに団結せざるを得ない状況を作り出せばよい。近隣の目も普段以上に光っているから、その場を去ることなどなかなか出来ない。こんなことを考えるのは、最近、「大地の子」を読み終えたからだろうか。素人目には、本当に電力が不足しているとは思えないのだが…

今回の原子力発電所の事故が引き金で、原発自体の見直しが世界各国で行われている。そういった中、ドイツは7基もの古い原子力発電所の稼動を停止する措置をいち早く取っている。17基を所有する同国は2140万キロワット(kw)を出力しているが、風力、太陽光など、他の発電方法を推進する国ならではの迅速な対応である。日本には運転中の発電所が55基あり、その出力数は4950万kwでアメリカ、フランスに続き第3位の規模を誇っている(2008年1月の時点)。台風や国土が理由で他の発電方法に注力する事ができない日本は、原発の依存度はドイツと比べると非常に高い。しかし、1基あたりの出力料が78万~110万kwの発電所を10基程度止めただけで、国民が電気の使用を控えないと賄えないほど、普段からギリギリの分しか発電できていないのだろうか。もしそうだとすれば、それはそれで別の問題である。

いずれにしても、国民は自身で決断するだけの情報が与えられないから、不安が恐怖を招き、結果、隣と同じでいいと思う。そう思わせるのが国策なのだろうか。アメリカ人は、「後悔するより安心がよい(better safe than sorry)」と言うが、日本人としての美徳(honor)にこの考え方は当てはまらない。事実、ボク自身は冒頭でも述べたとおり、「全う」が理由で日本に残っていると信じている。でも、はたしてそれが正しいのだろうか。苦しいときに、その苦痛を周りと共有する事で得られる勇気。力。苦しみや悲しみを一緒に乗り越えて生まれる結束。とても重要な事だと思うが、回りにあわせなくてはならない事に縛られ、苦しんでいる人もいるのだろう。また、一緒に戦わなかった人との間に線を引いてしまうのもよくない国民性だと思う。勿論、ボクとサエの間にはそういう国境はないが、それは複数の文化を共有しているから互いに理解があるのではないかと思う。

個人の主張と一員としての役割。この2つが共存する事は可能なのだろうか。
その時が来たら、是非とも我々の子供たちに聞いてみようと思う。

世界の夜を写した衛星写真 (c) NASA/CORBIS

1 件のコメント:

  1. 参考になるかはわからないけど、僕らのことを少し話す。義援金を寄付した以外は、「いつも通り生活する」ことを少しだけ意識して生活している。という程度。買い物も最小限。車には必要以上に乗らない。いつも通りに経済活動をすることが大事だと思っている。飲みにも行く。酒は福島の大七きもとがお気に入りなので、手に入る限り飲もうと思う。3カ月くんは母乳。水を買う必要もない。飯能は計画停電でしょっちゅう停電する。もともとエネループを愛用しているので電池もいらない。八高線が止まるのが不便だけど、う回路でスイーツを買ったりして楽しんでる。テレビも震災ニュースはほどほどにして、子ども番組を見る。3歳くんは津波や停電、地震のことがよくわかっていて、ごっこ遊びをしている。家族がいつもそばにいる、ということが彼にどれだけの安心をもたらしているか。

    二人のお互いを尊重しあう姿勢、僕は大好き。真似はとてもできないけど、二人らしくて素敵。生き方そのものがアートだね。僕はアーティストではなく、やっぱり教育者らしい。

    最近思うことは、地域の一員として、地域に貢献したいということ。職場の八王子ではそれなりに自分の存在感が出てきたところだけど、まだまだよそ者がちょっとの期間だけ貢献しているにすぎない。自分が生活をしているのは飯能。子どももこの街で育ち、税金を納める。あ、子どもが来たから今日はこの辺で。そう、僕の人生の中心は、こどもであり、家族。

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