7.27.2011

カザフスタン共和国の査証

現在チベットが独立60周年を祝って外国人の受入れを行っていないこともあり、中国を南下する案は取りやめ、中国西部を渡ってウイグル自治区ウルムチからカザフスタンの旧首都アルマティに入り、キルギス、ウズベキスタンを抜ける、いわゆるシルクロードを堪能する計画に変更。カザフスタンのビザを取得するため、ウランバートルで大使館を訪れることに。


街のはずれにある大使館は、月火木金の10:00~12:00、16:00~18:00にビザ申請を受け付けている。旧ソビエトの支配下にあった中央アジア諸国でビザを取得するためには、申請書のほかに政府からの 招待状を取得する必要がある時いていたので、初日は情報収集のために表敬訪問のみを試みる。訪れた当日が祝日中だったにもかかわらず、そこにいた担当員は申請のための必要な書類と情報を丁寧に提供してくれ、 日本のパスポートの場合は申請料USD30.00を収めれば招待状も不要だとのこと。後日、申請書2枚とパスポートコピー、顔写真1枚を持って提出に再訪問。我々が申請したのは30日間の1回入国用。本来は午前中の書類提出で午後発行らしいのだが、夕方でも問題なく受領してくれた。翌日に申請料を納めた銀行の記録を提出すると、その場でビザ付のパスポートが返却され一安心。


気をつけなくてはいけないのは、入国してから72時間以内にレギストラーツィアと呼ばれる入国登録を行う必要があること。これも旧ソビエト時代から残るシステムらしく、ロシアでも必要(が、結局出国時に税関から求められなかったので書類は手元に残ったままだが)だった。空路で渡航する場合は入国審査時に手続きされるらしいが、一部の宿泊先や現地内務省の外国人登録局で手続きが行えるそうなので、罰金を免れたい陸路の渡航者諸君、お忘れのないように。

カウチサーファー NO.119

カウチサーフィンという言葉を聞いた事があるだろうか。これは旅行者向けの登録制ノンプロフィット・ネットワークの名称で、個人宅を開放する地元住民、「ホスト」の家へ「カウチサーファー」と呼ばれる旅行者が無償で泊まることのできるコミュニティ・サイトである。元々は、あるアメリカ人がアイスランドへ渡航した際、宿泊先が見つからずに苦肉の策として近辺の大学生宛に泊めてもらえるか一斉メールを出したところ複数の返信を受け、そこからアイディアが生まれたらしい。現時点でホスト1,300,000軒、カウチサーファー2,990,000名の登録数を誇る本サイトの良さは、無料で泊まれることよりも文化交流をしたりガイドブックには無い情報を得ることができることである。また、地元の生活を垣間見ることができるということが人気の理由であるこのネットワーク、トラベラーは訪問先のホストを探してリクエストを出し、合意の上で宿泊が可能となる。僕らが初めてカウチサーフィンをしたのがコペンハーゲン。初回早々、僕がホストのランプを壊してしまうという事件を起こしてしまったが、以降様々な家に泊まらせてもらい、各地で素晴らしい人たちとの出会いがあった。


モンゴルでホストを探していたサエが見つけたのは、ウランバートルの外れにゲルで暮らす六人家族。どんな生活をしているのかに興味がある僕らはロシア横断時からリクエストを出し、前日にようやく連絡が取れて宿泊先まで迎えに来てくれることになった。きっと食事は羊肉が多くなるのだろう、4人の子供たちとはどんなゲームをして遊ぼう、など勝手な期待と想像を膨らませて迎えた当日の朝、自転車で迎えに来てくれたのはお父さんのべグズ。坊主頭に垂れて落ちそうな優しい目をした彼から路線バスでの行き方を丁寧に説明され、大きなバックパックと共に窮屈なバスに乗り込んで向かうこと20分。降り立ったのは砂埃が舞う未舗装の道に面した停留所。周りにはゲルやバラックのような住宅がひしめき合い、住民は明らかに部外者である僕たちから視線を離そうとしない。正しいバス停なのか不安に思いながら待つと、少しして立ち漕ぎのべグズが僕らに追いつき、丘の途中にある家に案内してもらう。





100平米ほどある広い敷地に点々と建ついくつかのゲルの一つに入ると、そこはゲストハウスにあったゲルとは異なり、生活感が漂う空間だった。中央には鉄製の囲炉裏が設置され、煙突が天窓を抜けて外へ伸びている。壁面にはものが積まれ、カラフルな木箱の上には神棚と写真が入った額が並べられている。その時家にいたのはお母さん、9歳、6歳、5歳の女の子3人で、どうやら長男は牛追いに出かけているらしい。勧められるがまま床に座ると、ヒェルムと呼ばれる薄めた暖かいミルク、牛乳を煮立てて上澄みを掬ったクリーム状のオゥルム、そして水分を飛ばしてチーズのように硬く仕上げたアロルが出された。聞くと、彼の家では体内の浄化を行うため、夏はあまり肉を食べないらしい。食後は長女マヌジンの横に座り、丘で採ってきたタンという花から根っこを取り除く作業を行い、その後べグズと3人で近辺を散歩し、裏の丘を登りながら地域について説明を受ける。




ここはウランバートル市に属するゲル地区と呼ばれる地域で、谷の間を流れる川を挟み込むように多くの人々が暮らしている。暮らしはマチマチで、べグズのように街の中心地で働く人もいれば近隣で生計を立てている人もいるが、決して裕福な場所ではなく多かれ少なかれ食料は自給自足に委ねられている。水道やガスは当然なく、電気も外から一本だけ引かれたコードにタコ足をつないで、裸電球一個とテレビ兼パソコン、そしてボリューム調整ができないラジオが一台分賄われているだけである。ネット環境は当然無いので、カウチサーフィンのサイトは職場でのみチェックしている。想像はしていたが、ナーダム祭時になかなか返事が来なかったのもそういう理由だ。




夕食は自家製のヨーグルトとパン。通常カウチサーフィンで食事の提供は含まれないのだが、彼の家では少額を支払って一緒に食べさせてもらうことができるので、僕らの分も作ってもらうようお願いしている。味は…必ずしも好みとは言いがたい味だが、経験のため、そして体内浄化のためにゆっくりとスプーンを口へはこぶ。食事が終わったと思ったら、調理した人へ感謝を込めて食器を舐めるのがここの作法だと言われる。うーん…身についた習慣が思いっきりブレーキを踏んでいる。ふとサエを見ると潔さの違いが既に行動に出ているが、踏み切れない僕は指先で食器の上をなぞって残りを集め、それを啜るようにして飲み込んで終了。意気地無いなぁ、まったく。かっこ悪いったらありゃしない。




子供たちはとても働き者だ。既に夏休みなので、長男は毎日5頭の牛を引き連れて川へ下り、長女は燃料に使う牛糞を干したり、掃除をしたりと忙しい一日を過ごす。6人家族で隠し事の無い生活は、寝床も幅の広い川の字。2日目からは僕らも作業に積極的に参加し、イロイロと新しい経験をさせてもらった。中でも、僕にとって最も印象深かったのは牛糞を使って作った屋外の釜戸だろう。彼らは2008年からカウチサーフィンに登録し、これまで様々な国から118組もの渡航者を受け入れてきたらしい。子供たちも物怖じする事なくすぐになつき、5歳児までもが拙いながらも英語を駆使してゲームに参加する。宿泊していった旅人たちの中には、彼らとの体験を綴った本を出版したり、ショートドキュメンタリーを制作した人もいる。ならば僕らもなにかという事で絵を描いてあげる事にした。





これら2枚を描いて選んでもらおうと思ったら、彼らが飼っている牛の絵を描いて欲しいとリクエストが。毎朝、乳搾りから始まる彼らの生活にとってかけがえの無い大切な牛。牛追いから戻った夕暮れから絵を描き始めたので困難を極めたが、出発の朝に無事完成。朝食の食器を綺麗に舐め終えてから絵を渡し、4日間の体験留学は幕を閉じた。




7.21.2011

ナーダム第2日

ナーダム2日目。本日は、フイ・ドルーン・フダット(Khui doloon khudagt)で行われる競馬を見に行く事にした。馬の年齢によって6つのレースに分けられるこの競技は、1レースにつき244頭の競走馬によって一斉に行われる。路線バスに乗って見に行く予定にしていたが、宿泊先で知り合った人がチャーターしたクルマに空席があるとの事で同乗させてもらえる事になった。後から知ったのだが、ローカルバスは相当の混雑で、しかも渋滞にハマって結局競技を観戦できなかった人が多くいたらしい。もともとナーダムは、どれもモンゴルでの生活に必要な技術を競う為に始まったのが由来だが、中でも人と親密な関係にある馬を乗りこなせる事はモンゴル人にとって必然であり、重要であると位置付けられている。


競技場に向かう途中の道路で知ったのは、穏便な性格と感じていたモンゴル人は路上で豹変するという事。片道2車線の道路は7車線にまで膨れ上がり、中には反対車線も平気で走っている車両がいる。我々のジープもその特性を生かして土が盛られた路肩を跳ねながら走り、ガソリンスタンドを通り抜けてゆく。レースを見に行く為にオフロードレースを体験しているようなものだ。1時間半後、会場に到着するとそこは車両の海原。更にそこから歩いてレースのゴール付近に到着すると、第一レースが終了したばかりだった。




 競技は広い草原で行われ、年齢によって片道15kmから30km程度の距離を走る。本日のレースは、6つの中で最も力強いとされる5歳馬、そしてこれから始まる、最も若い2歳馬のレース。ナーダムの競技を走り終えた馬の汗を額に付けると幸運を招くという言い伝えがあるらしく、出口には多くの人が押し寄せ、レースを走り終えた馬に群がっては体に触れているのが遠目から見える。モンゴル独特の小型な馬に乗る騎手は12歳前後の少年が主で、どの選手もあどけなさが表情に残っている。次のレースまでは1時間以上あったが、あたりが落ち着いているうちにいいポジションを確保し、徐々に期待を膨らませる。




旗を掲げた審判が馬でスタート地点に向かうと、それに連なるようにして競走馬がゾロゾロと続く。かなり離れたところからのスタートらしく目を凝らして見ていると、いつの間にかスタートしていた。呆気に取られながらも、道なき進路を進む馬が点になるまで追い続ける。この頃からスタンドにどんどん人が押し寄せ、気がつくと僕の座っている座席の後ろにぶら下がるようにして人が重なり合っている。

 



 遠くに砂埃が舞い上がっているのが見え、それがだんだん近づいてくる。一頭が圧倒的なリードでゴール付近に入ってくると声援がピークに達し、乾いた草原に火が付きそうな熱狂に包まれる。遅れて後続馬が次々にゴールし、そこに人が群がる。






一息つくまでに相当の時間がかかったが、素晴らしい体験だった。観戦後に、子供の頃に読んだ絵本、「スーホの白い馬」を思い出し、改めて読み返してみたいと思った。


なお、帰りのジープが再レースとなった事は言うまでもないだろう。



サエのブログ及びホームページの画像と合わせて、皆様からの投稿をお待ちしています

7.19.2011

ナーダム祭 2011 初日

朝6:30。ウランバートル駅に到着すると、祭を目指してきた人々でホームは埋め尽くされていた。ゲストハウスの人に迎えに来てもらい、移動すること10分。ぼくらが数日間お世話になる宿に到着する。コンクリートの建物の上には伝統的な移動式住居、ゲルがいくつも建てられていて、それがおもな宿泊施設らしい。残念ながら安価なゲルは既に埋まっており、ぼくらは建物内の個室をあてがわれる。


あらかじめ予約しておいたナーダムのチケットを受け取り、いざ会場へ向かう。ナーダム(Naadam)とは、モンゴル語でゲームもしくは試合を意味し、伝統競技の祭典である。年に一度行われるこの祭は国内あちこちで開催されるが、最も華やかに行われるのがウランバートル中心地にある競技場で、オープニングセレモニーなどの催し物もあるらしい。しかも今年は、匈奴(きょうど)民族の遊牧騎馬連合形成2220周年、チンギス・ハーンによるモンゴル帝国の建国805周年、国の自由革命100周年、そして人民革命90周年と、お祝い事が重なって盛大に行われるらしい。主な競技は、モンゴル相撲、弓射、競馬の三つで、郊外で行われる競馬意外はこの競技場付近で行われる。







簡単だと説明された大通りを歩いていく。ウランバートル市内は乾燥しているせいか砂埃が多く、そして朝から日差しが暑い。少々でも現金を持ち歩こうとATMを探したが、3日間行われるこの祭の初日ということもあってどの店も開いている気配は無い。スタジアムに近づくにつれ、舗装されつつある歩道は歩行者が連なり、車道は渋滞した車で埋め尽くされている。想像以上に大きな祭である事に期待を膨らませつつ30分ほど歩いてようやく競技場に到着すると、そこには民族衣装に身を纏った多くの人々とカメラを構えた観光客とが溢れている。


通路を抜けてスタジアムへ入ると、そこはオリンピックのように華やかな舞台だった。馬頭琴の演奏者数百名が手前に腰掛け、中央では様々なダンスや演出が行われている。人口100万人の首都から、何割の人がこのイベントに参加しているのだろうと思うくらい大勢のグループが後から後から出てくる。開催宣言のようなスピーチが行われ、競技がいよいよ開幕した。

 


競技場中央で行われているのはモンゴル相撲。相手の膝、肘、もしくは体が地につくまで闘う姿は日本の国技とは全く異なるスポーツである。両者が試合前に、そして勝者のみが試合後に腕を広げて舞う踊りは、空を舞う儀式らしい。外の競技場で行われているのは、弓射。艶やかな民族衣装を纏った男女それぞれが一列に並び、40M程先に重ねられた的を射る。




とても独特な競技を観戦した後ゲストハウスに戻ると、どうやらナーダムのお祝いに羊を一頭調理したらしい。

オーナーの家族や友人と共に、チンギスハーンのラベルが貼られたウォッカを飲み明かし、素晴らしいアジアの初日が夜を迎えていた。

ロシアのビール

残念ながら、ウォッカには手を出さず...

      

СИБИРСКАЯ КОРОНА Зодомцсмое, 4.0%, Моscow
СИБИРСКАЯ КОРОНА Кдассцческое, 4.0%, Моscow

シベリア鉄道の旅:イルクツク ~ ウランバートル 

走行距離  1081km
拘束時間  約26.5時間
出着時差  -1時間

早朝のイルクツク駅には欧州のバックパッカー集団、中国の団体観光客、そしてモンゴルへ帰国する人々で溢れていた。祭の為きっと混んでいるだろうと思いながら列車に乗り込むと、ルームメイトは就寝中らしい。静かに部屋へ入り荷物を閉まってゴロリ。上のベッドから起きてきたのは優しそうなモンゴルの青年で、彼の眠そうな笑顔に安心したのかぼくらはすぐに寝てしまった。


これまで乗った中で最も味のあるこの列車は、座席やカーテンの柄もアジアンな雰囲気。僕らの個室の青年は乗車している他のモンゴル人達のリーダー的存在らしく、皆の分の出国申請書を書いたり持ち込み不可の酒瓶を隠すのを指示したりしている。国境が近づき緊張感が高まってくると、車掌が全員部屋へ戻るように指示する。耳を突くようなブレーキ音とともに車両が停止し、その後大きな金属音とともにもう一度車両が揺さぶられる。カーテンの脇から覗いてみると軍人がホームに配備され、窓から覗かないように乗客へ指示しているのが見える。出国審査を行うロシアの最終駅、ナウシュキに到着したらしい。すぐに多くの検査官が車両に乗り込んでくると、パスポートと申請書を回収され、建物の中へ消えていき、不安だけが車両に残される。






予定停車時間は3時間半。パスポートの回収が終わると、乗客は自由に車両から降りることができる。下車してふと前方を見ると、先頭車両の機関車がいない。さっきの音はこれだったのか、と思いつつサエと共にロシア最後の空気を満喫。車両に待機するよう指示があり、そして没収から2時間半後、日がだいぶ傾いてきた頃に検査官からパスポートを返され、すぐに中を確認する。ホッとしたのもつかの間、軍服の女性が部屋に入ってくるなり、全員部屋から出るように指示され、ベッドの下や屋根裏、壁の隙間など隅々まで調べられる。違法な数量(と思われる)酒瓶計数十本を隠していたルームメイトも不安なのだろうか、入り口付近でその様子を見守っていたが、結局何も見つからずOKと言われて部屋に戻った。






列車が走り出してから少しすると窓から簡素な国境の看板が見え、それから更に1時間程すると車両が止まる。スクバートル駅に到着。通常は入国の方が緊張するものなのだろうが、既に入国したも同然の心持ちでパスポートを預ける。案の定一時間足らずで帰ってきたパスポートには、正式に第7ヶ国目に入ったことが記されている。




いよいよアジア。

バイカル湖のほとり♪

広大なシベリアの中で観光客に最も人気のあるイルクツク(Irkutsk, Иркутская)は、バイカル湖南西に位置する人口60万人の町。この町から世界一深い湖の畔までは60km程あるのだが、多くの観光ツアーはここから出発する。湖の面積は琵琶湖の46倍に相当する31500㎢、最大水深は1600m。オススメの観光地は奄美大島程の面積を持つ島、オリホン島(Olkhon, Ольхон)らしいが、一日一本のバスは片道5~6時間かかるらしく諦め、イルクツクから最も近い畔の町、リストビヤンカ(Listvyanka, Листвянка)を訪れる事にする。


ゲストハウスに早朝チェックインするなり、一週間ぶりのシャワー。車内で不眠気味だったぼくはさっぱりした瞬間、睡魔に不戦敗。昼過ぎまで休み、午後から翌日の長距離バス・チケットを買う為に街の中心地へ向かうことにする。宿泊先は川を挟んで反対側に位置するので、街へ出るにはローカル・バスに乗るのだが、これが手強い。路線バスはミニバンタイプが多いのだが、どこがバス停でどうやっており、どのタイミングでいくら払うのかがわからない。とりあえず正しいと思われるバスへ向かって手を上げて捕まえ、地図で追いながらどこにいるかを把握…うわっ、地図に無い道に入った。


Маркетと記されたところで降りると、そこはにぎやかな市場。あとで来ようと思い、少し離れたバスのチケット売場へ向かってオフロードのような道路を歩いて進む。到着したのはコンクリート製の一部が倒壊したような建物で、狭い部屋には多くの人が溢れている。列がどこだかわからないが、ようやくカウンターにたどり着くと優しい係員が丁寧に時刻表を片手に工程を組んでくれた。感謝感謝。その後、ハガキと切手を求めて町をブラブラしたが、聞くとどうやら切手は郵便局にしか無いらしい。それらしき建物を見つけて入ると、そこには7、8名だろうか、手にたくさんの郵便物を抱えて待っている人がいるが、カウンターの向こう側には誰もいない。とりあえず無いに等しい列に並ぶとそのうちに局員が出てきて一人一人の郵便物をノンビリと処理してゆく。なんとなくぼくたちの順番が近づくと、新たに入ってきて最前列に行き、チャチャっと要件を済ませていく要領の良い人もいる。ぼくらも切手2枚だけなのに…結局1時間半待ってようやく購入。疲れ果ててしまったが、活気ある市場に戻るとぼくらも元気が回復。電車用に野菜やパン、クッキーを安く購入して大満足。




翌日はあいにくの雨。それでも事前に購入したチケットでバイカル湖へ向かうこと1.5時間。世界一の透明度を誇る水は雨のせいか濁り、穏やかなはずの湖畔には波が打ちつけ、そしてアジア最大の淡水湖は霧がかって対岸や地平線が霞んでいる。大きな感動はなかったが、それでも来てよかったと思えた。早朝4時発の電車に間に合うよう早めに戻って出発の準備。ロシアからの出国は厳しいと聞いていたので、現金をバラバラに隠したり、それなりに準備して数時間だけ寝る。

7.12.2011

シベリア鉄道の旅: トムスク ~ イルクツク


走行距離  1541km 
拘束時間  約33時間
出着時差  +2時間


長距離移動の途中下車の場所としてトムスクを提案したのはサエ。人口47万人のこの町、現在は五つの大学を抱えるロシアの学生街であるが、窓枠や軒下に細かい木彫り装飾を施した、シベリア地方の伝統的な木造家屋が残されているということで、ぼくも賛成。列車を降り立ってロッカーを探そうとキョロキョロしていると同年代の青年が寄ってきて何か手伝おうか、と話しかけてくる。気持ち警戒しながらも話をすると、彼もバックパッカーとして旅をしている際に異国の地で助けられた経験があったらしい。荷物預かり場所での時間確認など笑顔で親切に付き合ってくれた。そんな彼に、「ロシアで初めて笑顔をみた」と伝えると、「ロシアでは誰も微笑まないんだ。もしそういう顔を向けられたら、なに笑ってるんだ?と因縁をつけられるから気をつけた方がいいよ」との事。確かに、北欧では誰もが笑顔に笑顔で返してくれたが、特にモスクワは睨まれる(ように感じる)事の方が多い。これもお国柄なのだろう。



小さいと思っていた町、実際に歩いて見ると平坦に広がっている。全体的に人が若く、そして英語が拒否されない。なにより笑顔が返ってくる。そんな事を感じながら、プラプラ。観光地ではないので駅に地図がおいている訳でもなく、ガイドブックの大雑把な地図を片手に散策したが当然のように迷子。でも、迷い込んだ先は生活が息づいた古い住宅街。カラフルに塗られた窓枠の中にはプランターが飾られ、路上には犬が寝そべっている。5、6時間歩いてようやく駅前へ戻る。



スーパーで買い物をし、朝の男性に薦められたウズベキスタン料理の店へ行ってみる。この国の予備知識はまったくない。頼んでみたのはピラフとフライド・ヌードルだったのだが、意外や意外、アジアン・テイストでとても美味しい。なんとなく中東というイメージがある「…スタン」だが、是非とも訪れてみたくなった。という事はウルムチからカザフスタンか。サエはどう思うだろう。いつ提案してみよう。

今度の列車はモスクワ発の車両に比べかなりの年代物。部屋に入ると、既に同居人なる人がゴソゴソと荷物をしまっている。まぁ最初が良すぎただけだろうとバックパックをそのままベッドの下に押し込み、その上にボロボロのマットを敷き、ゴワゴワのシーツで包んでゴロリ。カバンを抱えるように就寝…あれ?…寝られない…まさか神経質?シベリア中央で迎えた七夕の夜はあいにくの曇り空だったが、きっと世界のどこかの晴れた夜空で織姫と彦星は会えていることだろう。羊が13342匹…羊が13343匹…




シベリア鉄道の旅: モスクワ ~ トムスク

走行距離  3644km
拘束時間  約54時間
出着時差  +3時間

待ちに待ったシベリア鉄道。もともとこの世界旅を話し始めた際、ぼくが最初に提案した「やってみたい事」のひとつ。企画時は、BGMに某列車の旅番組のテーマソングが流れ、広大なシベリアの大地をサーッと走り抜ける優雅なイメージ。ただ、東京のようにキリキリとしたモスクワでの一日を終え、混み合ったホームには持てないほどの荷物の前に座り込んだ人などで足の踏み場もなく、まるで夜とは思えない市場のような賑やかさに圧倒され、未知の旅への現実さが増す。まごつきながらチケットと車両の番号を照合し、パスポートと切符を係員に見せて2等寝台室へ乗り込む。4人部屋は前回も体験したとおりだが、出発してから初めて貸切であることがわかり、顔を見合わせてホッとする。まだ途中駅から乗ってくるかもしれないが、我々のテリトリー内で好きなように荷物を広げてドアに鍵をかけて寝る。カバンからものを出すだけで開放感を感じるという心理は、一時的にでもそこを居住地と定めたからだろうか。犬が縄張りをマーキングするようでオモシロイ。




部屋にはソファベッドが並び、テーブルにはクロスがかけてある。シーツやタオルも支給されるが、シャワーが無いのは誤算だった。仕方ない、イルクツクへ到着するまでの5日間は風呂なしの覚悟を決め、濡らしたタオルで身体を拭く。寝衣とスリッパに着替え、完全にリラックス状態。こういったことはこれまでの地元渡航者を参考に実施。飲食は食堂で注文することもでき、メニューも豊富だが北欧での教訓から高いだろうと推測。乗車前にパンやチーズ、リンゴやクッキー、更にはアジアン・マーケットでアラビア語で記載されたラーメンや韓国うどんを買い込んで持ち込み、個室で食べる。お湯は各車両に備え付けられているので、コップや鍋の持参は必至。当然水は飲めないので、ミネラルウォーターもあった方が良いだろう。




駅では、数分しか止まらない駅があれば30分以上も停車する駅もある。旅行会社のナディアに工程表をもらっておいてよかった。到着時刻は数分前後する程度で、想像していたよりも正確で、長い停車の駅では下車してストレッチもできる。風景は、「世界の車窓から」のように流れるような編集力で移り変わることはなく、森林が永遠に続いたあと、草原が永遠と続き、また森林に戻る。しかしこの広さを時間で感じられるのはなんて贅沢なことなんだろう。

米独立記念日は特に花火もお酒も友人や家族との集いもなし。NYへ移り住む楽しみのひとつとして来年まで延期としておこう。