9.30.2011

身体が悲鳴...

旅人は皆そうだと思うが、僕らは訪れた各地を足で回る。歩く量はパリでだいぶ減ったが、朝から晩まで10時間前後を歩き続ける日が数日続く事もある。来仏していた妹に指摘されるまで気づかなかったが、元々歩くペースが早い僕は更に速度が早くなってしまったらしい。それでも、計18キロもある重い荷物を背負ってここまでサエはついてきていた。

しかし、パリについた安堵感で相当な無理をさせてきたサエの身体が一斉に信号を送り始めたらしい。風邪。肩コリ。ここ数ヶ月の間、サエから「鈍助」と呼ばれている僕も、原因不明の首の痛みで後ろを見る事ができず、腰から振り返るというマヌケな姿で数日を過ごした。もっとも、完治した事すら忘れていた僕のお気楽さは、サエに「ドンスケ~」を連呼させるキッカケを与えるに過ぎなかったのだが。

最近の2人の悩みは、朝が起きられなくなってしまった事。僕らはこれまで23時頃には寝て、遅くとも7時頃には起床するという健康な生活を送ってきたのだが、最近は目覚まし時計すら無視している…らしい。

「 」の都

パリは僕らが旅に出発する前から中間地点にしようと考えてていた場所である。きっと日本を出発してから全行程の半分あたり、そろそろ休息も充電も必要なのではと選んだ場所。別々に到着した僕らは、互いにお疲れ様をいう間もなく、友人との再会、妹や甥との合流、従兄家族の自宅へ訪問など様々なイベントがあり、これまでの旅にはなかった華やかな時間を過ごす事ができた。知った人々に甘え、ワガママをいい、楽しい時を共有する。異国の地でも、家族や友人とのホッとするひと時は変わらない。先々週の週末は、総勢8名もの家族、親戚が集い、フォンテーヌ・ブローやヴォー・ル・ヴィコンテなどお城を巡り、ゴッホが晩年の数ヶ月を過ごしたオヴェール・シュル・オワセを訪れた。パリから100キロ程度の郊外ですら、その風景や印象が異なり、違った一面を堪能することができる。




学生時代に訪れた時はそう思わなかったが、パリはとても好きな街だと実感した。食べ物も、人の温かさも、街並みも、新たな発見の数々も全て含め、心地よい。期待していなかった天候も秋晴れが続き、むしろ暖かくなってきている。ただ、まだ旅の途中。あまりリラックスしすぎると立ち上がるのが億劫になってしまう。しかもチーズにサラミにクロワッサン。この二週間でどれだけ体が重くなったかは怖くて知りたくもない。そろそろ今後の事も考えなければと家族会議を開始。


元々は6ヶ月間の予定で旅へ出発したが、もしここが中間地点だとしても最低8ヶ月にはなってしまう。しかも訪れたい場所は日に日に増えてゆく。西へ行くか、南へ行くか?どこから回ろうか?どうやって行こうか? ビザは?予防接種は?とりあえず欧州を11月上旬までに出ることと、次は南アジアへ向かう事までは決まった。インドのビザも昨日申請。

さて、これ以上荷物を増やさないようにしなくては。少し食事制限でもしなくては...

9.25.2011

言葉が通じない楽しさ

コミュニケーションを図る上で重要な道具である言語。これがないと、パンをひとつ買うこともトイレの場所を聞くことも難しくなってしまうが、無ければ無いでなんとかなってしまう。当然、震災の話や日本の長所について説明することはできないが、人とつながるという事は決して言葉だけにはとどまらないだろうと思う。誰がそう決めたのかは知らないが、世界の共通語とされる英語は僕もサエも一応持ち合わせている。でもこれまで訪れた国々は、それだけではどうにもならない事の方が多い。アイスランド北部の魚市場、モスクワ駅構内のロッカー付近、ウランバートル行の寝台車両の中、キルギスの閉鎖された国境。何が起こっているのか、どうすればいいのかがわからない時はどこにもある。


旅を続けていると、その土地が初めて訪れた場所であっても、よく見ていればそこでのルールや立ち回り方が何となく見えてくる。言葉が通じなくても公共交通機関の使用方法や、ものを買う時に何を聞かれているかはなんとなく想像できる。でも当然のように失敗もある。どこで聞いた話だろう。ある日本人男性がドイツのバーでトイレに行こうとした。二つある扉に書いてある文字を読んでどちらへはいるのが正しいのかを決めようとし、声に出して一つ目を読んだ。Herren… 入えれんのならもう一つの方、とそちらを読むと、Damen… さて、どっちへ入ろう...


パリに到着してから、僕の毎朝の日課は焼きたてのクロワッサンを買いに行く事。妹と甥が来仏している事もあり、この日はいつもより多めに買う事になった。"Bonjour, madam. Seize croissants, si'l vous plait."。 高校の時にかじったフランス語で自信満々にそう伝えると、店員のお姉さんが少し驚いた様子で聞き返す。"Seize?" "Oui"。 すると彼女は大きな紙袋を取り出し、これでもかとクロワッサンを詰め始める。あれ、2袋目?いやいやseizeだよ、と指で示すと"ahh, six..." と口元でため息をついて袋からクロワッサンを棚へ戻し始める。...そういえばセィスはスペイン語の6だ。スィースが6でセィズが16ね、ぱーどん、ぱーどん。自分の中で言い訳をまとめ、頭を低くしながら店を出たのでした。

オランダのビール

今回は情報収集もせず、ただひたすら飲むばかり。
好みよりは軽いが、あたりはずれがないのがオランダのビール。

正直画像と名前があっているかすら微妙…


 

Brand
Heineken









Amstel
Dommelsch


記憶喪失

運河、風車、路駐自転車

ハイネケン工場、美術館

ボート、ミッフィー、ミニマフィン

トラム、コロッケ、ソーセージ

フライドポテト、赤線地帯

コーヒーショップ、曇り空




オランダは今回12年半ぶり、二度目。でも前回の事はほとんど何も覚えていない。どこに泊まって、何を食べ、何を訪れたか… 覚えていない理由はアメリカの大学生12名が朝から晩までバーとコーヒーショップをハシゴしたからだけではない。

次に訪れる予定のパリもそうだったが、当時は全ての行動を人に任せっきりにしていた。安い宿泊先を予約し、率先して行き先を調べ、リーダーシップを取ってグループを引率するような考えは、あの頃の僕にはなかった気がする。

数少ない記憶は、雨がよく降っていた事、公園で地元の高校生とサッカーをした事、そしてアメリカに作品を貸し出し中だった為ゴッホ美術館が閉館していた事。後は、待ち合わせ場所での待機時間と薄暗い店内で友人たちと過ごした時間を足して一週間。





さて、友人達に手伝ってもらって、新しく記憶を書き込まなくては。
スコット、ジョー、ブランデン、よろしく。












9.23.2011

アイ・アムステルダム

オランダの首都アムステルダムに到着する1~2週間前ほどからオンラインで宿泊先を探していたのだが、どこも満室で値段も高い。何の催しがあるのかわからないが、尋常ではない。とにかく到着した夜の分だけでもとネット上を探し回り、中心地から離れた場所に空いている部屋を見つけ、一泊分だけ抑える事ができた。後は足で探せば何とかなるだろうという楽観主義は、先進国にきても変わらず。


到着の翌日。移動の疲れも取れぬまま、バックパックを背負って中心地へ向かう。サエは翌日の朝にパリへ向けて発つので、観光できるのは今日一日しかない。宿探しにあまり時間をかけられないと思っていたら意外とすぐに見つかった。中に入ってみると、ベッドの三辺が壁にくっつくほどの狭い部屋。でも鍵さえかかればそれで十分。ね、ネットは便利だけど足の方が早いよ、と今回は偶々運がよかっただけの事を自分の手柄のように褒め称え、荷物だけ置いて友人と三人で街へ繰り出す。



この日も雨が降ったり止んだりと落ち着かない天候。少し歩き、美術館を巡り、カフェで休む。どうやらメディア関連のカンファレンスが週末いっぱいアムステルダム市内で行われているらしく、17時を回るとワイシャツにスラックス姿の人々が一気にバーへ押し寄せてくる。それ以外にも観光客は多いが、イスタンブールと異なるのは押し売りをしないお店の人々。これは人種の違いというよりも品格の差なのだろうか。
翌日の朝、一足先にパリで友人と合流するサエをバスターミナルへ送る。今回の旅で初の別行動。彼女のことよりも悪友とつるむ自分のことのほうが心配。サエがいないと何もしないと思われてしまわないようにしなくては。やる事は…また宿探し、荷物の梱包と郵送、それからハガキを出す事くらいかな。とりあえずコーヒーでも飲みにいって、のんびりしてから考えようかな。やっぱビールにしよっと。


9.19.2011

オーストリアのビール

Murauer Marzen, Austria

ユーレイル・パス

朝のウエストバーンホフ駅。ここからドイツ・フランクフルトで高速鉄道を乗り継ぎ、オランダのアムステルダムまで約12時間。今回は北欧ぶりにユーレイル・パスを使用する。ユーレイル・パスとは、欧州の加盟国にて使用できる鉄道の共通回数券。使用日数、有効期限、国数などの条件によって割安で鉄道旅行を楽しめる、非欧州在住者向けのチケット。日本でも外国人旅行者向けに発行しているJRパスがあるが、それの22カ国共通版。寝台車や特定の車両は追加料金がかかる場合もあるが、今回のように長距離を丸一日かけて移動する際はとても有効。僕らが選択したペアチケットとは、必ず一組で行動する代わりに割引対象になる券で、2ヶ月の間に10日間使用できるもの。しかもペアチケットの場合は自動的にファーストクラス対象。


2日前、ウィーンに到着してすぐにチケットカウンターへ向かい、座席を確保しようと窓口で尋ねると予約は不要だという。そのような訳で当日も本当に電車に乗れるか、乗り換えも問題ないかなど、僕の頭では初のファーストクラスに対する期待といつもどおりの不安が入り混じっていた。車掌もいないのでとにかく乗りこみ、予約されていないと思われる座席の端に腰掛けてみる。電車が発車し、車掌に切符の確認をしてもらってようやく心配性の頭が落ち着き、持ち込んだパンをかじりながらあたりを見回す。なるほどこれがファーストクラスね。テーブル、パソコン用の電源、リクライニングシート。隣の車両は食堂で、飲み物なども持ってきてくれる。これで7時間なら快適だろう。明らかに周りの席の人たちとは服装もバッグも異なるが…
 
 


フランクフルトの乗り換えもスムーズ。ファーストクラスは全て予約済み(これがシステムのわからない部分。予約できないって言われたのに…)だったのでセカンドクラスに乗ったが、快適さはファーストクラスとさほど変わらない。同じ個室に乗り合わせたオランダ出身の紳士に、アムステルダムの秋の天候がひどい事を教えてもらい、20時半に目的地のアムステルダム・セントラル駅へ到着した。


雨降る夜の街に少々手こずったが22時に宿泊先へ到着し、23時に友人と再会。なんとか時間内に目的達成。

音楽の都といえば...

ブダペストからウィーンは高速鉄道で約3時間。これまでの移動の中で最も短いのではないだろうか。駅のロッカーへ荷物を押し込み、わかりやすい地下鉄で街の中心まで出てみる。雨。これまで天候に恵まれてきたので雨具はロッカー内のバックパックの奥の方。こういう日は室内へ逃げ込むのが無難、と美術館へ逃げ込む。



ウィーンではカウチサーフィンを通じて二泊とも地元の人の家に泊めてもらえる事になった。初日は一泊目の人と夕食を食べに行き、ミートボールを食べながらこの街でのオススメを相談。なるほど、美術、音楽、建築、いろいろと揃っている。余談だが、ウインナーってドイツかと思っていたら、「ウィーンの」って事だったのね、知らなかった。シュニッツェルもコーヒーもソーセージも。
 
 

 
 二日目は天候に恵まれ、8時間の散歩。いたるところにモーツァルトの名前と肖像画が使用されている。サエはシュニッツェルとザッハトルテにご満悦だが、少し疲れが見え始めている様子。この日は同年代カップルのアパートに泊めてもらい、彼らの友人らと共に家でパンプキンスープとパンケーキ風のカイザーシュマーンを食べながら話に華を咲かせる。「ウィーンが音楽の街なんて誰が言ったんだ?俺の友人で楽器をやってるやつなんか一人もいないよ」。
 
 
 
ナルホドね、ウィーンに対する我々の限られた知識がモーツァルト、サウンドオブミュージック、そして少年合唱団だから、そうなっちゃうのね。恐ろしや固定観念。
 
 

東欧諸国のビール



Kamenitza, lager, 4.4%, Plovdiv, Bulgaria

Lav, lager, 5.0%, Ceralevo, Serbia
Jalen Pivo, 5.0%, Apatin, Serbia


Soproni, 4.5%,  Budapest, Hungary
Dreher Classic, 5.2%, Budapest, Hungary




ブダ + ペスト




ブダペスト。宿泊先は可愛らしいゲストハウスで、スタッフも親切。何よりありがたいのは英語が通じる事。フロントで地図をもらって街へ出る。市内は、固定観念にあるヨーロッパの歴史を感じさせる街並みで、広いが歩きやすい。知らなかったのだが、ドナウ川を境にブダ側とペスト側にわかれている。初日はブダ側の城や教会を訪れ、二日目は自転車を借りてまず温泉。のんびり公園を巡ったりし、移動続きの数日で減ったエネルギーを充電。


 
 
 
一日半じゃ何もできないなぁ。


9.18.2011

予定、計画

イスタンブールから目指す次の目的地はオランダ。そこで僕の友人達と合流し、その後パリへ移動してサエの友人と会う。この旅に出てから三ヶ月半にして初めて他人と共有する予定。イスタンブールからアムステルダムまでの距離は直線でおよそ2200km。与えられた日数は9日間。これまで具体的なスケジュールを持たずに移動してきた僕らにとってはひとつのチャレンジである。予定よりも早く出発する事を決め、行程を組んでみる。セルビア経由か、ルーマニア経由か。チェコは?クロアチアは?ポーランドは?未知の東欧は興味深い。でも時間が足りない。最終的に決めたルートは、セルビアのベオグラード、ハンガリーのブダペスト、そしてオーストリアのウィーンにそれぞれ二泊ずつする事にした。イスタンブール~ベオグラードは20時間、ウィーン~アムステルダムは12時間かけて移動する事になる。
 


ソフィアの路面電車
最初の夜行列車は、今はなきオリエント急行の線路をたどるバルカン・エクスプレス。二等寝台車両の六人部屋。乗車すると既に三人が僕らの部屋で待ち構えていたが、出発してみると他の部屋がガラ空きだったので、親切な車掌の計らいで人組一部屋が与えられる。ブルガリアとの国境には午前3時に到着。下車して出国手続きを行い、その2時間後に今度は車内で入国手続きを済ませる。翌日の昼を回った頃電車が首都ソフィアで停車すると、車掌が全員降りるようアナウンスする。よくわからないが、どうやらベオグラード行の連結を逃した僕らの車両は 7時間もここで釘付けらしい。半日を市内で過ごし、再び同じ列車に乗ってベオグラードへ向かう。


七時間後にホームへ戻ると我々の車両だけ放置されていた


早くも脱線した予定を取り戻すべく、さほど大きくはないベオグラードの街も半日だけの滞在にした。残念な事にテニス界の女王たちには一人も会わなかったが、長年に渡り紛争を通じて合併と独立を繰り返してきた旧ユーゴスラビア圏最大の都市が想像以上に発展していることに驚いた。街の一部には破壊されたビルがそのまま残してあり生暖かい傷跡として保存されていたが、ドナウ川周辺の落ち着いた雰囲気からはそういった一面を見ることはなかった。




その晩も夜行列車。今度は更に安い八人部屋の座席で一泊。朝6時にブダペストへ到着し、駆け込みでゲストハウスを探し、まず昼寝。さて、間に合う事やら。

9.08.2011

トルコのビール

ようやくコクのあるビールにたどり着いたと感じた。エーゲ海側にあるエフェスで生産されているこのビールだが、ギリシャ人に言わせれば「まだ味が足りない」らしい。

Efes Pilsen, pilsner, 5.0%, Efes




  Efes Dark, 5.5%, Efes

アジアなのかヨーロッパなのか

トプカプ宮殿内のタイル模様
複雑な歴史の歩みの中で築かれてきたからだろう、トルコの文化はこういうものであるとは一概にいいがたい。人種をみるとトゥルク系民族は勿論、西はアーリア・アングロ系、東はクルド・ペルシャ系、北はロシア系やモンゴル・中央アジアの遊牧民族もいるだろう。文明は、古代ギリシャ、メソポタミア、ペルシャ、ローマなどが時代と共に寄せては文化や遺産を残してその波を引いてゆく。特に、アジアとヨーロッパの架け橋を担い、様々な帝国の首都として君臨してきたイスタンブールは、食、工芸、建造物、音楽、生活習慣において多くの文化が共存している。

ナンを使ったピザ、ピデ
伝統旋舞、セマー
歴史の波に揉まれてきた複数民族系地域を国家として統一したのはトルコ共和国初代大統領のムスタファ・ケマル氏。「トルコの父」を意味するアタトゥルクと呼ばれ敬愛される同氏は、1923年の建国と共に近代化を図る大改革を行い、ラテン文字の導入などを積極的に行った。この地で生活する様々な人種をトルコ人として唯一結びつけるのは、赤字に三日月と星を記した国旗のみではないだろうか。



人民の99%がイスラム教徒であるトルコ。約一ヶ月の断食月、ラマダンの最終日にイスタンブールへ戻った僕らが目にしたのは、おびただしい数の国旗だった。日が沈むと共に街中に人が溢れ、音楽やダンスのパフォーマンスが野外で披露される。気のせいだろうか、スカーフで頭部を覆う人々の表情も明るいように映る。翌日も、昼間から多くの家族連れが広場での食事を楽しんでいる。日出から日没までとはいえ飲食を制限される生活がどの様なものであるかは、宗教も節操も持たない僕には全く想像がつかない。


中国の蘭州からイスタンブールまでの長いシルクロードの道のり(中東は飛び越えてしまったが)を渡り、様々な文化や人と出合ってきた。元々は中国中央を南下し、チベット、インド、ネパールを巡る予定だった僕らの旅はルートから大きくそれてしまったが、それらはきっとそのうちに訪れるだろう。日本育ちの僕にとって、陸続きに繋がる国々の色が徐々に移り変わっていく様は不思議な光景だったが、つながっているのは国境の接面だけで無い事を知れたのはとても贅沢で貴重な体験だと感じた。

さて、次は欧州。予算を再確認しなくては。