8.30.2011

富んでイスタンブール

ウズベキスタンのビザ申請に時間がかかる事もあり、キルギスのビシュケクからトルコのイスタンブールまでは飛行機で飛ぶ事にした。カスピ海上空を抜けてウクライナはキエフで経由し、出発から10時間後にアタトゥルク国際空港へ到着。37時間のバス移動から比べると対した事はない。ただ、下調べを怠ったイスタンブールで我々を待ち受けていたのは、これまでなかった試練の数々だった。




1.バックパック紛失
ビシュケクの空港で預けた荷物が、2つとも所在不明になってしまった。所有者不明の荷物が山積している空港の紛失物預かり所で届けを出し、見つかったら連絡をしてもらう事に。幸い翌日出てきたのだが、空港へ取りに行っても特に詫びる事もなく、持って行っていいわよとだけ言われる為に半日も費やしてしまったのは無念。聞くとキエフに放置されていたらしい。まぁあったからよしとしよう。今後は洗面具だけでも手持ちにいれようと学習。





2.観光シーズンのピーク
イスタンブールは観光客が多い。特に静かな中央アジアから来た我々にとっては、圧倒されてしまう程のおびただしい数が世界中から集結している。スルタンアフメットの狭い路地に新型の大型バスが進入し、スーツケースとハンドバッグを持ったオシャレな旅行者達がさっそうと降り立つ。どの店からも最新ヒット曲が大音量で流れ、軒先から店員が呼び込みをする。イスラム教の絶食月であるラマダンだけを念頭にいれて到着した我々には、想像を絶するお祭り状態だった。また、日本人を含むアジア人は他の旅行者と交流を持とうとする人が少ないように感じる。確かに、もし僕が7~10日の貴重な有給休暇を利用して海外へ旅行するなら、わざわざ自国の人間と交流は持たないかもしれないが、それにしても頑なに距離をおかれてしまうのにはガッカリ。


3.ツーリスト慣れしたトルコ人
市内を歩くと、「ニーハオ、アンニョンハセヨ、コンニチハ」と気軽に声をかけてくるのはトルコ商人。日本語が堪能な人は、大抵兄か弟が都内のトルコ料理店で働いているといいながら近づいてき、自分の店に引き込もうとする。我々もいきなり絨毯屋に引っかかってしまった。笑顔の男性は言葉巧みに我々を店へ引き込み、説明をしながら数十枚ものトルコ絨毯を床に広げ、消去法で好きな柄を選ばせる。その後一方的に値段を提示した後、「君ならいくら払う?」と迫る。何度買う気がない事を伝えてもしつこく迫ってくるが、表情はどんどん険しくなっていく。しまいにはふてくされる始末。あまりビジネスの駆け引きはうまくないようだが、商人達の強い押しには脱帽。




4.観光設備が充実
観光産業に力をいれているこの街は、とにかく旅行者にとって便利である。空港では市内マップが渡され、店の看板は全て英語で表記され、貨幣もリラだけでなくドル、ユーロで決済が可能。バスも宿泊施設も公園も全てが綺麗に整備され、あたかも遊園地にきた様な感覚に陥ってしまった。これまで、ポストカードを探す事すら一日作業だった我々にとって、努力のいらないこの街は少々物足りなさを感じてしまい、呆気に取られてしまった。





 ネガティブな内容が続いたが、ここは来ないと損だとも思わせる程に歴史と文化の深さを伺わせる建造物と街並みには圧巻。代表的なモスクや宮殿は素晴らしい状態で残されており、バザールでは当時から息づくであろう熱気が伝わってくる。ヨーロッパ側とアジア側を隔てるバルポラス海峡を見下ろすように広がる街を見ていると、貿易における海峡の重要性と複雑に絡み合う文化の融合にも納得がいく、ような気がする。便利だが物価は欧州諸国に比べると安い。ただ、どこに行っても人が多い。とにかく疲れるので、さっさと脱出して東側を見にいく事にした。




8.28.2011

旅の名言集

おいしいね、クノールやるじゃん。
-サエ 6月6日、アイスランド、パンと共に食べたスープについて


ヨシ、ホームレスの臭いがする
-サエ、7月3日、ロシア、モスクワ駅のホームにて


私の持ち物全部、故郷に帰ってきているみたい
-サエ、8月8日、中国、ウルムチの市内にて


オレ、ホームレスの匂いがする
-ヨシ、8月25日、トルコ、アンカラのバス車内にて

8.26.2011

キルギスのビール


キルギスではロシアビールが流通しており、
地元のビールを探すのは困難。代わりに
ウォッカやコニャックを飲む人が多いような
気も...

味は特に印象なし。

Арпа, 11.%, Bishkek



ビキニと警官とドキドキ僕

アルマティと雰囲気が似ている事もあり、首都ビシュケクでは街の散策はあまりそそられず、イシク・クル湖の北部に位置する町、チョルポン・アタを訪れる事にした。ビシュケクからバスで4時間ほどの距離に位置する避暑地は、キルギスが誇る自然からはかけ離れたリゾートだが、時間が限られていた僕らにとってはこの程度の距離の小旅行が妥当。ゲストハウスで知り合った日本人の男性と三人で行動する事に。


ミニバスを降りてまずは宿探し。この辺りは民宿が多くあり、安価で泊まる事が可能。バス停付近ではおばちゃん達が呼び込みをしているので、値段さえ希望に合えば探すのは難しくない。2人で400Com(¥700)の部屋に荷物を置いて、岩絵野外博物館を訪れる。広大な敷地の入口付近にプレハブの小屋があり、その後ろには大小さまざまな岩が延々と続いている。4000年程前に遊牧民によって描かれたと推測されるこれらは、無数の岩の中から探し出さなくてはいけない。ゆっくりと歩きながら発見する岩絵の中には年月を感じさせられるものもあり訪れた甲斐はあったが、落書きされている岩も多くあり、その感動が半減してしまったのは残念。その後は湖のビーチを訪れ、ビールを片手に午後のひとときを満喫。水は相当冷たいらしく水から上がった人は皆震えていたが、先が長くない夏を少しでも楽しもうと多くの人が水浴びを楽しんでいた。




翌日、午後にビシュケクへ戻った際に宿泊費分のお金が足りない事に気付く。土曜なので銀行が閉まっている事を想定し、一人で某高級ホテルのATMを目指す。四日目の薄汚れたシャツで中へ入れてもらえるかを心配しながら歩いていると、警官二名が近寄ってくる。パスポートは?と聞かれたので出すと目の前に停車しているクルマに乗れという。中には私服の人物がいて手招きをしているので言われるがまま後部座席に腰を下ろすが、ドアは開け放して右足だけ外に出しておく。賄賂の要求もあるかもしれない。素直に従うべきか、どう対応しよう。
 

若い私服の男は、パスポートを確認しながらビザや入国日についてロシア語で質問してくる。同じ1975年生まれである事に喜び見せた笑顔が優しく、少し安心しながらジェスチャーと3つの単語で質問に答えると、その後肩に手を置かれ「#%^*$&@ #%^*$&@ narcotics?」。あー、薬物ね。無いですよと両腕を見せて注射痕が無い事をジェスチャーすると、持ち物検査。素直に持ち物全てを見せ、クリーンである事と協力的である事を証明する。落ち着いて対応したつもりだったが、よっぽど早くこの場を去りたかったのだろう。OKだと言われて慌ててクルマを降りようとしたら、パスポートはポケットにしまってから降りろと指摘を受ける。もっともだ。最後にジャパニーズ・ジェントルマンとまで言われ笑顔で見送ってもらったが、こういう事はどうしてかサエがいない時にのみ起きるのはなぜだろうと考えさせられてしまう。ホテルでお金をおろし、引き返す途中で同じクルマにすれ違うと、同年生まれの彼が笑顔で手を振ってくる。紳士らしく軽く会釈したが、足早にその場を過ぎ去った。


尋問された事を正当する訳ではないが、ちなみに土曜のこの日は市内でデモがあったらしく、僕以外にも職務質問を受けた人が何人かいたそうだ。

充電場所


キルギスには日本のオアシスがある。ビシュケクにあるサクラ・ゲストハウスは、日本人の疋田氏とそのご家族が経営する施設で、バックパッカーへ安価な宿泊を提供する宿。Wi-Fi環境の設備が整っていて、清潔感のある施設にはドミトリーやダブルの部屋があり、夏は屋上などに泊まる客がいる程繁盛している。利用客は日本人も多いが、勿論欧州やアジアの旅人も多々いて、世界旅や登山など様々な目的でこの地へ来ている。


多くの旅人がこの場所で長期滞在(=沈没)してしまうのにはいくつかの理由がある。一番多いのは、隣国へのビザ申請のために滞在しているケース。ウズベキスタンやタジキスタン、イランなどこれからの旅先に向けた準備を行うには、市内中心に近く位置するこのゲストハウスは最適である。大使館によってはロシア語で事前に訪問日の予約を行う必要があるが、キルギス出身の奥様がそういった事もやってくださる。


二つ目の理由は、施設がとても旅人フレンドリーな事だろうと思う。元々オーナーご自身が登山家で旅人だったからだろう、バックパッカーにとって非常に使いやすい設備が整っている。洗濯物を手洗いしやすい深いシンクや干す場所がたっぷりある屋上。ブドウ棚の日陰とそよ風が心地よい共有スペースに簡易キッチン。小旅行時に荷物を預かってもらえるクローゼット。これで冷蔵庫があれば、中には一日中外に出なくなる人もいるだろう。それ程心地よい。


最後は、日本人にとって情報の共有がとてもしやすい環境である事。世界各国の訪問先やビザについてここに集まった人々と意見交換する事ができる。国によっては入国やビザ発給の条件が頻繁に変わるので、ガイドブックよりも最新の情報を得る事ができる場合もある。もちろん世界各国のゲストハウスにおいて各国の旅人と情報交換をすることは可能だが、ストイックな日本の旅人たちの情報は豊富だと思う。


登山家さん、チャリダーさん、バックパッカーさん、それぞれが面白おかしく語る珍道中の話は時間を忘れさせ、ブログのアップを怠るほど楽しい時間である。中央アジアを旅される際は、是非お立ち寄りあれ。


皆さん、よい旅を。また会う日まで。

8.22.2011

カザフスタンのビール

カザフスタンにもいくつかビールはあるらしいのだがなかなかお目にかかれず、しかもなぜかあまり飲む気もしなかったので、ひとつだけの投稿になってしまった。特に重くも軽くもなく、平凡なビール。それよりも、サエが飲んだ地元の赤ワインは非常に甘く、生暖かいのが印象的だった。


Белый Медведь 

出国拒否??

ロシアを含め、カザフスタンを始めとする旧社会主義国ではレギストラーツィアと呼ばれる外国人滞在登録が必要である。これは陸路で同国へ入った場合に5日間以内に内務省外国人管理課を訪れ、登録をするというソビエト連邦時代からの名残の制度らしい。木曜午後に指定された場所へ赴くと明日の10時に来いと言われ、翌日早めに行くと既にカウンターに向けて人が押し寄せている。受け取った書類を記入し、コピーをとってようやく提出すると、月曜の18時に取りに来いと言われる。即日と思っていたので戸惑ったが仕方がない。パスポート未所持で過ごす週末は問題を起こさないようにしなければと思いながらその場を後にする。



市内の散策は1~2日で充分だったので、以後は朝から中長距離のバス停留所へ行き、サモサを食べながら適当なバスを見つけては乗って日帰り旅行を楽しむ事を何度か行った。アラタウ山脈を望むメデウや渓流が流れるタルガルなどを訪れ、少しでも街中から離れる事を満喫していた。





列ははないので人に紛れてカウンターを目指す
月曜夕方に無事パスポートを回収し、翌朝に次の国へ出発する事にした。僕らが選んだのは、無難なビシュケク行き直通のバスではなく、東側の小さな町カラカラから南下して国境を越えてキルギスのカラコルに入り、イシククル湖を大回りしてビシュケクに向かうルート。直通でビシュケクまで出入国を含めて4時間かかるのに対し、大回りのルートでは国境まで4、5時間、多めに予測し3日程度で大まかな行程を組んだ。



上がりっ放しのワイパー、下がりっぱなしの窓、割れたままのガラス。満席になるまで呼び込みを続け、7:38に出発した満席のミニバスは順調に進み、休憩をはさみながら広い大地を走って行く。途中高原から渓谷が見え始める頃には蜃気楼が大地を覆い、幻の水面に映り込んだ地形が外の気温を示してくれる。バスの中は気さくな人々ばかりで、言葉は通じないものの話しかけてきたり、おばさんがジェスチャーで僕らを家に招いてくれた(ように解釈した)りしてあっという間に過ぎ、気付くと昼過ぎに目的地のケゲンへ到着していた。




そこからヒッチで車に拾ってもらい、10分程走ってカラカラへ到着。そのまま国境まで送ってもらえるようお願いするが、通じない。とりあえず車を降りてどうしようか考えていると別の車が止まり、一旦走り去ったと思ったら中国人の女性を乗せて戻ってきた。何と通訳を探してきてくれたのだ。彼女の説明によると、国境は一年半以上も閉鎖したままだそうで、皆があちこちに電話してくれたりしたが結局無理だからアルマティに戻った方がいいとの事。ここまで来て折り返すのは悔しいが方法が無いなら仕方がない。獣の匂いがする車でケゲンまで送ってもらい、そこから別の車でアルマティへ向けて同じ道を引き返した。





アルマティに戻ってきたのは、出発からちょうど12時間が経過した19時。そのまま国際バスターミナルへ行き、21時のバスでビシュケクへ向けて出発。深夜の国境は静かで空いており、疲れた僕らにとってありがたい環境。これまでで最短の審査を受け、初めて歩いて国境を越えた。ビシュケク着いたのは1時半。たかが200kmを進むのに18時間もかかってしまった事になる効率が悪いのもブラリ旅の醍醐味と自分たちに言い聞かせながらも、翌日は一日のんびりする事だけを決めて就寝。宿があってホントよかった。


カザフスタンと四国には意外な共通点が??

国土の面積は世界第九位、中央アジアを代表する近代都市、カザフスタン。ロシア、中国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を持ち、ヨーロッパの文化を共有するアジアの国。ソビエト連邦の崩壊に先駆けて独立を図った若い国は、古都のアルマティ、首都のアスタナを構える2大都市で構成され、広大な土地にはモンゴルの草原を思い起こさせる地形やキルギスとの国境を築くアルタイ山脈など、多くの自然が残されている。


恥ずかしながら、来る事を決めるまでは中東の一部だろうと思っているほど何も知らなかった。既に通過してきた旅人たちにオープンな人々の温かさについては聞いていたが、どの民族が住んでいるのだろう。到着したのは14、5年前にアスタナへ移転するまで首都として反映した南の都市、アルマティ。バスを降り立ったのが22:00という事もあり、街は想像していたよりも暗く静まり返り、都会という印象は受けない。中国から比較するとけっして安くはないモーテルに転がり込み、翌日から散策を開始。
 
 
 
 
中央アジアの中でも一番北部にあるせいか、カザフスタンには多くのロシア系民族が生活しており、アジアとは言っても肌や髪の色は十人十色。モンゴル系の人、トゥルク系の人に加え、混血と思われる人などが生活している。ウルムチでは民族の違いが生活場所や見た目にはっきりと分けられインパクトがあったが、アルマティではむしろそういった強い印象がなく、正直最初は少し物足りなさを感じるほどである。幅の広い道路に沿って歩道を覆い隠すように整列している並木の太さが街の古さを示しているが、風景も人々同様、シルクロードの通過地点としての歴史を思わせる雰囲気は一つもない。
 
 
 
 
噂どおり人々はとても親切である。料理を注文する時も、バス内で降りる停留所を探している時も、親身になってわかるまで手伝ってくれる。中には家に招かれたりする旅人もいるらしい。そんな親切心を感じながら四国の人々についてを思い出した。三年ほど前の夏に 徳島を訪れた際、とても温かく迎え入れてくれた方々がいた。泊まる場所を提供してくれ、朝食を持ってきてくださったり、地元のワカメやスダチをお土産として多くいただいた。聞くと四国の人が旅人をもてなす文化というのは、古くより1200mものお遍路巡礼を行う人々を迎え入れるところから来ているらしい。
 
 


この解釈から推測すると、アルマティの人々が親切なのはその昔長い道のりを旅する人々を受け入れてきた名残という事もあるだろうか。これはあくまでも自身の勝手なこじつけであるし、歴史上この街が旅人にとってどのような位置づけであったかは不明だが、これまで通過した国々ではなかった温かさがとても新鮮に感じられた。
 
 
蛇足だが、男性同士の場合は話を始める前に握手をしたり、相手の肩や腕に手を掛けながらコミュニケーションを図ることが多い。日本で出会ったイラン出身の人もそうだったが、これはイスラムの文化なのだろうか。

中国のビール

他の中国産のビールと比べて最もポピュラーな青島を飲むととても薄い。
一番良く飲んだのは乌苏啤酒。ただし冷えていないことも多いので要注意。

それでも飲んだけどね。


青島啤酒, lager, 3.3%, 青島(Tsingtao)
黄河啤酒, 3.3%, 兰州市(Lan Zhou)
乌苏啤酒, 4.0%, 乌鲁木齐市(Urumqi)





そんなに現地人っぽいかい?

旅をしているとどこの出身かを聞かれることが多い。屋外にいることが多いので肌はいい具合に日に焼け、国籍不詳になっているのは自分でもなんとなく気づいているのだが、モンゴルでは現地の人からよくモンゴル語で話しかけられた。自身を指差して「ヤパン」というと嘘だと言われ(たような気がし)、更にモンゴル語で問いかけられる。何を何回言われてもわからないので首を傾げると、今度は「yakuza」呼ばわり。ここ中国でもモンゴル人、韓国人などとと思われ、なかなか日本人とは思われない。一番驚いたのは、アイスランドで聞かれた「ヒマラヤ人?」。え?国もあてがわれないの?


中国ではサエがよく現地人に間違われる。もしくは台湾人。ただし、これは北京語でコミュニケーションを図った上で言われることなので、それほどすごいのかと改めて感心させられる。「部屋はあるわよ。ところで、隣の彼は何なの?」とある外国人が宿泊できない施設では言われたらしい。え?オレだけ宿泊できないの?

快適な移動手段

出発の一時間半前に国際バスターミナルへ着き、事前に購入したチケットを何度も確認しながら乗り場とバスを探す。予約したのは寝台バスだが、これまでの中国国内の移動が大変な体験ばかりだったので、二人とも口にはしないが期待し過ぎないように静かに待っている。荷物をスキャナーに通し、バスの荷室に押し込んでから乗り込むと、ナルホドこれが寝台バスか。





乗客数28名。一人約一畳。これなら24時間も全く苦にならないだろう。ウランバートルで知り合った英国人の旅人もたまたま乗り合わせ、30分遅れて19:30に出発。進行方向へ沈む夕日が、次の国へ向かっていることを示してくれる。ビザなしでの滞在可能期間15日をフルに使わずの出国。内4日間は移動に費やし、めまぐるしい滞在になってしまったが、人々の優しさ、文化の複雑さ、そして食の美味さはまた触れてみたいと思いつつ、次の旅での楽しみとしてとっておく事にしようと思いながら次へと向かう。


砂漠で彷徨う

ネットのアクセス規制により、更新が遅くなっています。まとめてアップする事になりますがご容赦ください(^^)



世界で最も内陸に位置する都市、ウルムチ(乌鲁木齐)を首府にもつ新疆ウイグル自治区は、中国の中でも異質な地区である。元々シルクロードの休憩地点としてタクラマカン砂漠付近のオアシスを中心に遊牧民が移り住むようになり、やがてこの付近は東トルキスタンとして栄えてきたが、その歴史は独立と隣国からの弾圧でいまだに抗争が耐えない。民族は漢、ウイグル、モンゴル、カザフ、キルギス、ロシア、トゥルクなどを中心に40以上も入り乱れ、市内でも路地を一本曲がるとここは本当に中国なのだろうかと疑うような景色に変わったりする。

その中でも、南疆方面の町、ホータン(和田)とカシュガル(喀什)はウイグル族の文化と歴史を垣間見る事のできる町と聞いており行く予定にしていたのだ が、7月21日にホータン市内で警察への報復による襲撃事件が、また7月30、31日にはカシュガルで通行人にまで被害が及ぶ連続殺傷事件があり、地元の 人とも相談の上で断念する事に。民族・宗教問題から勃発する事件は、とても日本人の僕たちには理解できない程複雑で、そして重い。


暴動を警戒して巡回中のパトロール員
 


予定変更を余儀なくされた僕らは、せめて世界で二番目に大きい砂漠を見に行きたいと思い始めるが、地元の人に相談すると自殺行為だという。ウイグル後で死を意味するタッキリ、そんな名前を持つ場所は素人の僕らにはとてもではないが無理らしい。あちこちで相談した結果、ウルムチ市の東約300km辺りに位置する町、ピチャン(鄯善)からクムタグ砂漠にいける事を知り、バスで向かう。道中には遺跡が多く残る観光地のトルファン(吐鲁番)や西遊記で知られる火焔山もあり、乾いた土地が連なっている。4時間後にピチャンヘ到着してクーラーの効いたバスを降りると、暑いなんてものではない。とにかく飛び込みで宿に入ると外国人は泊まれないとの事。町に3軒しかない外国人の宿泊可能な宿を教えてもらい、一息ついてから食事へ。そこで気温を尋ねると45℃。暑いわけだ。


サエがバスで知り合った人によると、僕たちが訪れようとしている砂山公園は外国人価格が設定されているので、タクシーの運転手にチケットを購入してもらうといいとの事。夕暮れに訪れたいと思っていた僕らは、昼食後に下見がてら向かって見る事にする。若いタクシーの運転手に情報どおりのことを聞いてみると、砂漠なら無料で入れるところへ連れて行ってくれるらしい。入り組んだ路地を抜けてぶどう棚の脇で車を止めると、待っているから見てきなと言ってくれる。なんて親切。フェンスをくぐり登りにくい砂山を登り切ると、そこは延々と広がる砂漠だった。感動も大きいが、木陰一つないそこは正に灼熱地獄。照り返しも半端なく、温度は町中とは比べものにならない。写真だけ撮ると熱くなったカメラを抱えてすぐにタクシーへ戻り、また夕方出直すことに。





この小さな町は大通り一本に全ての店が連なっていて、砂漠に近い地域にウイグル族、国道に近い方に漢族が居住している。砂漠から離れると、夜市のある中心地を境目に、砂の建物は見慣れたコンクリート建造物へと変わっていく。歩道には並木が植えてあり、日陰の通路になっている。これがなければ外など歩くことはできない程、まるで近くで何かが燃えているような乾燥した暑さだ。本当に芭蕉扇が必要かもしれない。



20時頃同じタクシーに迎えにきてもらい、今度は公園に行くことを告げるとチケットを買ってきてくれるとのこと。一人30元と書かれたチケットを手にして入口へ行くと、確かに英語では60元と書かれている。問題なく入場してしばらく進むと広大な砂山が広がっている。登って高台から夕日をみようということで、慣れない足取りで砂漠を歩くが登り坂は足下が崩れて思うように進まない。常に水を飲みながら一時間半ほどかけて一番高い砂山に登ると、その先に見えるのは永遠に続く砂山。美しさとともに、呑み込まれて方向感覚を失いそうな恐ろしさを垣間見た気がした。







帰りは原付自転車に荷台をつけた一元タクシーへ乗り、夜市へ。中央アジアがますます楽しみになってきた。